2012年8月13日(月曜日)16時42分 配信
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スポーツナビより
■プロスイマーの先駆者
2004年アテネ五輪と08年北京五輪の男子平泳ぎで、2大会連続100メートル、200メートルの2冠獲得を果たした北島康介(日本コカ・コーラ)。その実績だけが注目されがちだが、彼は日本で初めて、プロスイマーの道を切り開いた選手でもある。
北島がスイマーとして、マネージメント会社と契約したのは03年7月に開催された世界選手権(バルセロナ)の前だった。01年世界選手権(福岡)200メートルで銅メダルを獲得し、02年アジア大会(韓国)では200メートルで当時の世界記録(2分9秒97)を樹立と、平井伯昌コーチの思惑通りに進んでいた。次に目指すのが世界選手権での金メダルと世界記録更新となった時、これ以上に大きな存在になって日本水泳界をリードしていくようになれば、専門的にマネージメントをしてくれる者が必要だろうと平井が考えたからだ。
そうして契約した03年から現在まで、マネージャーとして北島に付き添っているのが田中由起さんだ。
「私が初めて見た試合が(03年の)世界選手権で、いきなり2個の金メダルと2つの世界記録だったんです。でも当時は水泳界のこともまったく知らなかったから、何をどうすればいいかも分からなかったですね」
そのころから海外遠征には必ず同行したが、競技に関してはコーチの平井が責任を持ち、マスコミの取材など細かいことは田中さんらマネージメント会社の者が受け持つという分業制だった。
その中で田中さんらはアテネ五輪優勝後の05年、日体大を卒業した北島に日本コカ・コーラと契約してプロ選手になる道を用意した。そして、その後は北京五輪へと突き進みながらも北島が希望した、子供たちと水泳を通して触れ合う“フロッグタウンミーティング”の企画や開催などに力を入れた。
■北京五輪後、次なるステップへ
北島は北京五輪で2大会連続2冠を果たすと、次のステップへ進もうとした。その時、協力者として動いたのが、それまで北島を担当していた大久保のり子さんと田中さんだった。
「北京五輪の後どうするかは、康介もまったく決めていなかったんです。ただ、水泳から離れていろいろなことをやってみたいというのがあったから、1年間は依頼された仕事をやってみよう、という感じになったんです」
北島の気持ちの中には、元々海外に住みたいという希望があったという。田中さんは「それを本当に実行するとは思わなかった」と笑うが、彼のそういう気持ちも、それまで所属したマネージメント会社との契約を満了する気持ちにさせたのだろう。
キチンとしたマネージメント会社だと、それなりの方向性はある。だが、自分のことを自分で決められる、自らの会社を持ちたいという希望があった。
「ちょうど私も、それまでの会社ではどこかやりきった感があって、何か新しいことを始めたいと思っていたんです。そうしたら偶然、康介も同じ3月で契約を打ち切るということが分かって。それで会社を辞めてから、すでに辞めていた大久保も一緒になって、何となく新しいことをやろうか、という話になったんです。本当にタイミングが合ったというか」(田中さん)
■米国移住、本格復帰……心境の変化を迎えた北島
09年6月、北島と大久保さんが共同代表を務める「株式会社IMPRINT」が正式に立ち上がった。そして、すでに北島は米国・ロサンゼルスを本拠地にすることを決めていた。
「英語圏で日本から行きやすいところ、それに寒いのが嫌いだから必然的にロサンゼルスになったんです。でも、康介は英語ができなかったから、私たちがいなかったら移住に苦労したかもしれませんね」
最初は水泳をするという意志もなく、日本での仕事もあって行ったり来たりの生活だった。北島は英語を勉強したいという希望が強かったので、当初はマンツーマンの教室に通った。 だが田中さんには前々から、北島が100パーセント、水泳から離れることはないという思いもあった。もしそのまま引退するとしても、水泳界に係わる仕事をするだろうと。
「会社をつくっても、康介が米国へ行った時も、今後どうなるか分からないというのが正直なところでしたね。もし、競技を続けたいとなった時には、全面的にバックアップするつもりだったけれど……。ただ、康介の収入だけに頼る会社にしたくはなかったので、今はいろんな人を担当したり、プロジェクトをやっています。康介自身も会社の経営にはタッチしているから、そういう面白さもあると思います」
09年7月の世界選手権(イタリア)では、テレビ局のコメンテーターもやってみた。「それは自分には向いてないと分かったんじゃないですか」と田中さんは笑う。実はその年、5月ごろから家の近所のプールで泳ぎだしており、6月からは現地にいた佐野秀匡(ミズノ)の紹介で南カリフォルニア大のコーチ、デイブ・サロのチームで練習をするようになっていた。そして、夏を終えてから競技へ本格復帰する決意を決めた。
「正直、09年の時点では康介が本当にロンドン五輪へ行けるか、私たちもよく分かりませんでしたね。年齢的なこともあるし、平井コーチから離れた新しい環境で結果が出るのかって……。ただ、前は無理している感があったけれど、今はそこまで肩ひじを張っていないというか。当然、五輪に出るんだったら金メダルを期待されるのは承知しているし、それを分かってやっていることが、逆に気が楽なのかなと思いますね。今はもう自分が納得するためにやるという意識に変わってきていると思うから」
■北島は「周りがよく見えている」
今では「この時期にこういう試合に出たい」とか、「こういう練習をしたい」というのをすべて自分で決めている。だからこそ、10年8月のパンパシフィック選手権の100メートル予選で59秒04の好記録を出し、200メートルでも2分08秒36で2冠を獲得した時は安堵(あんど)した表情だったという。というのも、その年の4月、日本選手権で50メートル、100メートルは2位、200メートルは4位という結果。その時、関係者から出た米国移住が失敗だったという声を、結果で払拭(ふっしょく)できたからだ。
だが昨年の世界選手権(中国)の100メートルで4位と惨敗した時は、さすがの北島も落ち込んでいたという。
「4月の代表選考会で肉離れした時はすごく痛そうだったし、日本で治療していたから準備期間も短かった。その影響もあっただろうし、本人も『世界選手権だから』という気持ちや、『ある程度はできるかな』というのがあったんだと思うんです。それが表彰台にも上がれない結果でしたから……。いつもは言い訳は一切しないし、前向きなことしか話さない康介だけど、あの時だけは後ろ向きな言葉ばかりで、すごくへこんでいましたね。私たちも専門的なことは話せないから、どうしていいか分からなくて」
ただ逆に、水泳のことが分からないから、気楽だったのかもしれないと田中さんは言う。
「私もいろんなアスリートと仕事をしてきているけど、周りがよく見えている子だなとすごく思いますね。思い込みが激しい選手も多いけど、康介の場合は『自分がもう見られている』とか、『こういう時はこうした方がいい』というのを感覚的に分かったりするんです。その意味では北京の後はすごく大人になったな、と思いますね」
■金メダル獲得の喜びも共有できる
しかし、競技を本格的に再開してからは、英語の勉強はちょっとお留守になっている状態だ。そんな時に頼りにされるのが田中さん。先日も北島の米国宅へ裁判の陪審員候補となったという手紙が来た。「どうすればいい?」と聞かれて、田中さんはインターネットで断り方を調べて北島に教えたと笑う。
「米国で生活をしている康介をみると、日本にいる康介とは違いますね。日本だと出かける時にも気をつかわなくてはいけないけれど、米国では誰も康介のことを知らないわけですから。時間の流れがゆったりしているし、自分の時間を持つことができているな、と思いますね」
また、北島と一緒に仕事をすることで、競技はやってなくても金メダル獲得を疑似体験することができる。それが素直に嬉しいと田中さんは言う。
「あれほどの結果を出しているオリンピアンはいないし、康介は日本のスポーツ界を世界にアピールできる存在だと思うんです。だから将来は世界で仕事をやって欲しいですね。ロンドン五輪後も競技を辞めないと思うから、まずはとことん、納得のいくまで競技をやってもらいたいですね。彼は順風満帆じゃないし、泥臭い感じもあるから、そういうところに好感を持ってくれる人も多いと思いますから」
初め、北島を含めて4人で立ち上げた会社も、今は10数人のスタッフになった。さらにスイミングクラブの『KITAJIMAQUATICS』も立ち上がって活動中だ。
水泳とともに育ち、さらに大きくなろうとする北島。偶然彼と出会った田中さんや大久保さんは、彼との係わりに感動しながら、支えあって成長しようとしている。