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「両親の愛情を受け継いでいく」 メダリストとして母として

2012年8月13日(月曜日)16時33分 配信

奥野史子さんインタビュー

london.yahoo.co.jp/pg/column/okuno_01.html

スポーツナビより

元シンクロナイズドスイミング日本代表の奥野史子さんは、1992年のバルセロナ五輪では、ソロとデュエットでそれぞれ銅メダルを獲得した。また、94年の世界選手権ではソロ史上初の芸術点オール満点を記録するなど、日本シンクロ界に大きな軌跡を残している。
95年に現役引退してから、シルク・ドゥ・ソレイユに日本人として初めて出演を果たしたり、スポーツコメンテーターとしても活躍。陸上選手の朝原宣治さん(現・大阪ガスコーチ)と結婚し、現在は1男2女のママとしても奮闘している奥野さんが、自身の現役時代のこと、子供たちのことについて想いを語った。

■食事管理、衣装作り……家族の大きな支え

 少女時代、奥野さんがシンクロナイズドスイミングを始めたのは、三姉妹の姉たちの影響だという。身体が弱かった姉を健康に育てたい、という目的で両親が通わせ始めたスイミングクラブに、シンクロナイズドスイミングのクラスがあったのだった。水泳を始めたのは、わずか4歳。小学校に入学する時には、すでに4泳法はすべてマスターしていたという。小学校に入学するころから、スイミングクラブ内でも適性に合わせてコースが選べる。そこで、シンクロを始めた奥野さんは、そこからメキメキと力をつけていった。
練習日は、毎週月・水・金曜日。夕方5時半から8時まで練習する。学校から帰ると、間食をとって、練習が終わればそれこそ、髪の毛がビショビショのまま自転車を飛ばして家に帰る。そして、お母様が毎日手作りしていたご飯をかきこんでいたのだとか。
「京都の古い家でしたから、おかずといえばいわゆるおばんざい。でも、今から考えるととても栄養バランスのとれた優れた食事だったと思っています」
 煮物の野菜や魚は大好物だったが、どうしても肉が食べられない。鶏肉も豚肉も牛肉もからっきしダメだったという。

「でも、井村(雅代)先生に出会って、本格的にシンクロナイズドスイミングの競技者を目指すようになった時には、ちゃんと食べられるようになりました。偏食が許されないということもありましたけれど、きちんとお肉をいただくことで、しっかり身体が作られる、壊れた筋肉を早く修復してくれて疲れが早くとれる。それを身をもって体験できたんでしょうね」
 中学に進学すると、お母様はシンクロのコーチとともに1週間、どんな食材を使ってどのような調理をし、それを奥野さんがどれくらいたべたかという克明な記録をつけていた。それをもとに、コーチと相談をして、選手として理想的な栄養指導を受けていたという。必要があればプロテインなどのたんぱく質をしっかり摂取することで、力がついていくことや疲労がたまらないことも、身をもって体験していった。奥野さんが体重を落とさなくてはならない時には、家族全員の体重が落ち、逆に体重を増やしたい時には家族全員が太ったというから、栄養指導がいかに徹底されていたかがわかる。
 また、シーズンごとに行われる大きな大会に合わせて衣裳を作製するのも、お母様の大切な仕事だった。奥野さんの体型に合わせて水着のサイズを変更し、キラキラ輝く小さなスパンコールを何色もそろえて、それをデザインに合わせて一針一針縫い付けて、美しい衣裳を作り上げていた。
「それを試着して泳いで不都合があれば、明日までに直してこい、と言われることもありました。私は練習から帰ってそのことだけを伝えて、ご飯を食べて寝るだけだけど、翌朝にはきちんと直した水着が出来上がっていたんです。それこそ、母が夜なべしたんですね」
そんなふうに、母の愛情をいっぱいに受けて大好きなシンクロナイズドスイミングを続けていた奥野さんだが、一度だけ、辞めようと思ったことがあったとか。
「親しかった友人が辞める、と言い出して。コーチとの信頼関係もとてもギクシャクしてしまい、信頼が取り戻せないならシンクロを続けることはできないと考えていたのです」
 2週間――。まったく水に触れることさえなかった。その後しっかりと話しあいが行われ、コーチとの信頼関係を取り戻した奥野さんに、もう迷いはなかった。
「実際には2週間、泳ぎたくてしょうがなかった。それ以降は、練習がきついと思うことはあっても、シンクロを辞めたいと思ったことはありませんでしたね」
 そうして、同志社大学在学中に行われた世界選手権でチーム銅メダル、92年のバルセロナ五輪ではソロで、デュエットで銅メダルを獲得。さらには94年の世界選手権では、それまで当たり前とされていた「笑顔」を封印した「夜叉の舞」をフリールーティーンで披露し、ソロ史上初の芸術点オール満点をマークして銀メダルを獲得した。

■奥野さんに響いた夫・朝原さんの言葉
 2002年に同じ同志社大同窓生であり、08年北京五輪男子4×100メートルリレーで銅メダルを獲得した朝原宣治さんと結婚。現在は、8歳の女の子、5歳の男の子、0歳の女の子のお母さんでもある。
「一番上の子は以前はスケートをやっていたのですが、1年中できないこともあって、今はやめています。夢中になっているのは絵画教室!ものを作るのが大好きみたいですね。すぐ下の男の子は、水泳よりも今は空手に夢中。不思議ですね」
 しかし、長女が7歳になった誕生日、実は奥野さんの心の中には、少なからぬ葛藤があったという。
「私がシンクロを始めた年齢に、この子はシンクロを始めていない」
 そんな奥野さんの心を見通したかのように、ご主人の朝原さんは、奥野さんにこう語った。
「ええやん。彼女は君ではないんや。僕と君の子どもなんやから、全然違うことをしたらいい」
 この言葉がすーっと奥野さんの心にしみ込んでいったのだった。そうだ、子どもたちがやりたいことを、やらせてあげよう。そのために親ができること、手助けをしてあげよう。私の母が、私にしてくれたのと同じように。朝原さんのこの言葉は、奥野さんの心の荷を軽くした。
育ち盛りの子ども3人の母として、今もっとも心がけていることとは――。
「きちんと食べさせてあげること。子どもの時に空腹感、ひいては心の飢餓感を味わってしまうと、それは一生続いてしまうと聞いたことがあります。きちんとお母さんに抱っこされて、おいしいものをたくさん食べて愛情をいっぱいに受けて育つこと。それが、子どもにとって大きな自信になっていくのだと信じています」
 また、ご主人の朝原さんは、とにかく何に対してもポジティブで前向き、常に自信をもって行動する。
「見てて、面白いくらい。でも、それは彼のお母様のおかげなんですよ。彼がどんなにテストで悪い点をとってきても、決して叱らなかったんですって。『大丈夫。私はあなたをできる子どもに生んでいるんだから!』って。ずっと言い続けてきてくれたのだそうです。それは、主人にとっては、魔法の言葉ですよね。私も、母から大きな愛情をいっぱいにもらって育ててもらった。彼も、また同じように大事に育ててもらった。そういう両親の愛情の形を受け継いで、つなげていければいいな、と思っています」
 シンクロナイズドスイミングと陸上競技。どちらもメダリストの子どもたち。世間の期待はいやがおうでも、盛り上がるというもの。
「子どもたちにとって、絶対にしてはいけないと心しているのは、『お父さんとお母さんにできて、なぜ、あなたにはできないの?』という言葉を投げつけること。どんなことをするにしても、いろいろと悩むこともあると思うんです。でも、その時にちゃんと正面から考えてほしいな、と思いますね。自分がこれを選ぶことでどうなっていくか。そういうイマジネーションのある人間になってほしい。私も主人も安易な道を選んだ自分を想像して、それをよしとしなかった。そういう選択のできる大人になってほしいと願っています」
 世界に誇るオリンピアンの子どもたちが自由に、すくすく育っていく姿が目に浮かぶようだ。

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