Swim-tv

水泳の総合情報サイト! ニュースからショップまで、水泳に関する情報が満載!

定番チャンネル

番組表



定番ちゃんねる 心に残る名レース

北島選手が日本新で4大会連続の五輪出場

心に残るレースでは、北島選手が、やはり名前が出てくるのではないでしょうか!
ロンドン五輪選考会では、4大会連続の五輪出場を決めました。
4回と言っても、尋常ではない。
一般の人や、他の競技の人は「水泳」は素質のある人が勝ち続けるような錯覚さえ覚えるほどだ。
水泳で4大会出場や2大会連続金メダルって、すごい!ではすまない。
神技である。
スピード競技でこれほど素晴らしい記録を出している選手は他に居ないではないでしょうか!

シドニー五輪(2000年)、アテネ五輪(2004年)、北京五輪(2008年)、そしてロンドン五輪(2012年)。
どのレースも、残る名レースになる。

今回は、近々に行われた「ロンドン五輪選考会」

選考会前に、「北島選手が調子がいい」とは聞いていた。
しかし、もう29歳だし、という気風が流れていたのは間違いない。

100m平、予選に出場し、前半からかっ飛ばす北島選手を観て考えは変わった。
これは、復活ではなく、パワーアップしたな。以前の泳ぎとは違う。
一見、ストロークが少なくなってストロークを短くなったように思えたが、タイムが良い。
何より、ベテランの選手が前半から突っ込むことは、本当に恐れを知らない証拠だ。
準決勝、決勝とタイムを上げ、決勝では58秒90。
ビックリするより、あきれるほどの記録だ。
世界ランキングはもちろんトップだし、敵知らずのレース展開。
これこそ、「キング」である。

北島選手のレース展開を若手は勉強してほしい。
前半流し後半とばすが、上がりきらない選手や、ビビって前半からいけない選手など。
現役の北島選手がいるうちに、若手選手は、是非とも北島選手に色々聞き、今後の生かしてほしい。

第11話

2004年アテネオリンピック
山本選手の200mバタフライでの快泳

アテネオリンピックでの日本を代表するミスターバタフライ!!
200Mバタフライの山本貴司選手です。

私はかつて、山本貴司選手と同じチームで練習していたものです。
日頃から優しく接してくれていた山本選手。
試合会場などでは誰が置きっぱなしにしていたか分からないジュースの空き缶も黙ってゴミ箱に捨てに行く。
スターになっても気取らないそんな山本選手がやってくれた!

予選、準決勝ともに見事なレース展開で決勝に残り、誰もが知る超人マイケル・フェルプスや、
そのフェルプスを脅かす同国のトム・マルチョーや、イギリスを代表するステファン・パリーなど、
予想通りの強豪と共に戦う我らが山本選手!!
課題であった後半をどう泳ぎきるのかが見ものであった。

得意の前半は問題なし。
150Mまでのメダル争いは激しかった。
ラストのターンを3位で折り返し、残るは、疲れがピークのいつも失速してしまうラスト50M。
周りは名の知れた強豪ばかり。

ラスト25M。

まだ大丈夫!

あと10M。もってくれ!

あと5M。頼む!!!

見事2位入賞!
しかもラスト50Mからの失速ではなく、追い上げはすばらしかった。
フェルプスにあと一歩と迫ったが、残念。しかしすごい!
順位も素晴らしいが、タイムも1分54秒56とこれまでの日本記録を0.96上回る大記録!

この種目でのメダル獲得は58年ぶり!日本の皆に大きな感動と勇気を与えた!!

第10話

1992年バルセロナオリンピック
史上最年少金メダル

1992年バルセロナオリンピック
女子200m平泳ぎ決勝 7月27日

日本中いや、世界中の人が驚いただろう。
無名の選手そして、オリンピック史上最年少の少女が金メダルを獲得したのだ。

岩崎恭子14歳(当時)

オリンピック代表を決める日本選手権は2位で代表権を獲得。その時の記録は2分32秒65。

オリンピックの1週間前に14歳になり、迎えたバルセロナオリンピック200m平泳ぎ予選
いきなりの2分27秒78。
それまで30秒も出したことがないのに・・・・。
予選2位通過。それでも、あまり注目はしていなかった。

競泳競技2日目
決勝の日
金メダル候補の世界記録保持者アメリカのアニタ・ノールが序盤からぐいぐい飛ばす中、岩崎は前半押さえ気味でレースを進めていた。そして150mのターン後、岩崎は一気にピッチを上げ猛然とノールを追い上げた。
そしてラスト20メートル、
実況の島村俊治アナウンサーが。

「日本の岩崎にチャンスがある! 岩崎にチャンスがある!
  もうメダルは間違いない! 並んだ、並んだ! 逆転した! タッチは!?」

次の瞬間、解説者の高橋繁弘さんは解説を忘れ
「やったーーー!!!」
とマイクの前で絶叫していました。

しばらくして、島村アナが笑いながら、
「いやぁ、高橋さん、ほとんど解説になりませんねえ」
「すいません、興奮しちゃって…」
と高橋さん。

番狂わせの結末。
アニタ・ノールをゴール10mで抜き去り、タッチの差でゴール!!

記録:2分26秒65(当時・五輪新、日本新)

そしてインタビューで答えた言葉。

「今まで生きてきた中でいちばんしあわせです」

未だに伝えられている、世界一素直なコメントだった。

無名の少女が世界のヒロインになった瞬間だった。

私と同年代の選手がオリンピックという桧舞台で感動と驚きをくれたレースでした。

こんなレースを忘れることは出来ません。

第9話

2001福岡世界選手権
男子50m自由形山野井選手の大レース

記憶に残っている人もいると思うが、
世界最速の男決める
男子50m自由形で山野井智弘選手が決勝で22秒18で3位に入ったレースを

私は記憶に残る名レースに挙げたい。

体格で劣る日本人が最も表彰台に立つ事が難しいといわれたこのレースで山野井選手は堂々3位入賞を果たしたのである。
もともと日本新記録を連発し日本では最速の名を欲しいままにしていた彼だが当時のベストタイムから考えても誰も表彰台に上がるとは思ってもいなかったはずである。

日本人選手の中でも決して大きくない彼が決勝のコース前に立つと筋肉隆々の外国人選手比べれば明らかに外見だけでは劣っている。
テレビで観戦していた私も「日本新出るかな?」くらいにしか思っていなかった。
まさか表彰台にあがるとは、実際に50m自由形で大幅な記録更新は考えられないものである。

ジュニアスイマーならともかく日本記録保持では尚更難しいこと。

そして、驚くのは一緒に決勝レースで戦った相手だ。

まず1位はアンソニー・アービン選手、言わずと知れたシドニーオリンピックこの種目の金メダリスト。

そして2位が知らない人はいないでしょう。 ピーター・ファンデン・村上ファンド、もとい、フォーヘンバンドです。

まだまだビックネームが続く3位で山野井選手と同着だったのは

今注目のスーパースプリンター、ローランド・スクーマン。

そんなメンバーの中で堂々3位輝かしい!

僅か22秒で終わるこのレース、一瞬にして鳥肌が立ちました。

付け加えるなら、マーク・フォスター。

オーストラリアの荒鷲、ブレッド・ホーク、彼は昨年の日本室内にオープン参加していましたが、現日本選手は誰も歯が立たなかったのです。

そんな面々の中で、体格面で劣る山野井選手が3位に入ったこのレースが私の心に今も鮮明に残っています。

第8話

1999年の日本選手権
千葉すずカムバック 女子200m自由形決勝

私が心に残る名レースを話したいと思います。

それは、1999年の日本選手権(辰巳国際プール)にて

女子200m自由形決勝に、カンバックした千葉すず選手のレースです。

引退し、そして、復帰後の大レースでした。

スタートしてから、泳ぎは重たいように感じた・・・。

50mを過ぎ、100mが過ぎ、そして、150mのターンも、トップを泳ぐのは、「山野井選手」だった。

ここまま2位で終わるか?最悪2位以下か?と思っていた私の目が、すずさんに注目した!

150mターン後、今までのすずさんとは、違った泳ぎなった。何かが違う、変わったのであった。

ターン後、キックが強烈に!そして、大きい泳ぎは、それはそれはすごく大きな泳ぎになった・・・。

みるみるうちに、山野井選手を抜き、トップにたった!

そして、そのままゴールイン

1分58秒78(日本新記録)。

そして、すずさんのガッツボーズ!

鳥肌が立ちました。

あのすずさんが、自分の胸の前にする「ガッツポーズ」と「後半の追い上げ」は

今も、忘れることはない。

私は、本当の強さを知りました・・・。

ray

第7話

1988年ソウルオリンピック
出場を賭けた熱き男の戦い がそこにあった・・・

「1988年ソウルオリンピック出場を賭けた熱き男の戦いがそこにあった・・・」

当時が懐かしい・・・私の専門も彼らと同じ平泳ぎだった。

当時を振り返ると忘れもしないあの名レースが目に浮かんでくる。1988年ソウルオリンピック!!この大会の出場を賭けた熱き男の戦いがそこにはあった。このドラマは現在、中京大学水泳部監督、高橋繁浩先生を中心に繰り広げられた男の熱き戦いを描いたものです。

1978年サンタクララ国際100mと200m平泳ぎに優勝し、1978年度世界ランキング1位をマークした高橋繁浩選手。平泳ぎでは無敵の存在であった。同年の第3回世界選手権100m平泳ぎは6位入賞を果たし、第8回アジア大会100mと200m平泳ぎで優勝するなど数々の素晴らしい成績を収め、平泳ぎ選手やその他の選手まで、憧れ的存在だった。しかし、事件は起こる。「水没泳法」だ。泳法違反で失格を取られスランプに陥いった。1984年ロサンゼルスオリンピック出場後に現役を引退。指導者の勉強、そして水泳部コーチとしての道を歩み始めた。

しかし突然、高橋選手に明るいニュースが飛び込んできた。1987年に FINA ルールの改正が行われた。(高橋選手にとっては諦めれない何かが出てきたんではないかと想像する。)これを契機に現役復帰。1988年ソウルオリンピック出場に向け、新たな高橋選手の選手活動が復活した。まず、代表選考会の1年ほど前だったと思う。現役を引退していた高橋選手が、現役復帰(カムバック宣言)をした。当時、テレビ朝日の報道でも取り上げられていた。既にその頃は新旧交代時期で平泳ぎの戦国時代とも言われていた。ここで、その当時の選手を紹介しよう。
まずは200m平泳ぎを得意としていた渡部健司選手(早稲田大)、当時100m平泳ぎの日本新記録保持者の不破央選手(日本大)、そして新星、長畑弘伸選手(同志社大)、山内弘也選手( JSS 東花園)がいた。まさしく新旧交代戦国時代だった。現役復帰した高橋選手にとってこの4名の選手の存在は大きく強敵だった。いよいよソウルオリンピック代表選考会がやってきた。岡山の 倉敷市 で行われた。ファンの期待を背に200m平泳ぎ予選に出場した高橋選手。しかし予選1位通過はなんと新星、長畑弘伸選手だった。長畑選手のスプリント力、勢い、パワーは高橋選手はもちろん、その他の選手にとっても強敵であり、長畑選手の持ち味、存在感を大きくアピールした予選だった。高橋選手は遅れをとっての予選通過だった。

そして決勝・・・熱き男の戦いが始まった。
高橋選手にとっては、長きに渡り君臨してきた平泳ぎの王者としての誇りがあり、決勝レースでは、予選の悔しさ、恐怖、迷いはなかった。
200 m にも関わらず、前半からぶっ飛ばした高橋選手がそのままリードを保ち、見事1位でゴールイン。そして念願だったソウルオリンピックの出場権を獲得した。
・・・それから3ヶ月の間、北海道の野幌でオリンピック強化合宿を行った。

そして本番のソウルオリンピックではB決勝に残り、 自己の持つ日本記録を10年ぶりに塗り替える 日本新記録を樹立した。(すべてが高橋さんの集大成が現れていた気がする)
現在のように報道も充実していなく、またプロ化にもなっていなかった為、北島康介選手のように大きくスポットを浴びることがなく、一般の方にもあまり知られていないのも現実。
しかし、水泳を愛する者として永遠に忘れることのできない心に残る名レース、そして心に残る名選手として今でも私の心に残っている。

「不死鳥 高橋 繁浩 」 現中京大学水泳部監督

第6話

2004年アテネオリンピック
女子800m自由形

アテネオリンピック女子800m自由形

2004年8月20日(現地時間)
スタート前
予選3位で通過した柴田亜衣の顔には笑みがあった。

後に聞けば「早く泳ぎたかった」らしい。それほど今までの練習に自信があったのだ
ろう。

柴田亜衣           3コース
ローハ マナドゥ(フランス)4コース

take your mark

飛込みが苦手な柴田はいつも通りのゆっくりなスタート。
一方マナドゥはスタートから飛び出していった。
前半から柴田とマナドゥの一騎打ちとなった。1位マナドゥ、2位柴田。

400mまでは世界記録より早いペース。そして600mまでは完全なマナドゥのレース。そ
れでも柴田は離されなかった。

600mのターン

柴田は「マナドゥに追いついているのがわかった」

ここからスパートをかけた。
だんだん距離が縮まっていった。

750mのターン

ここで柴田が1位マナドゥ2位。しかしほとんど差はなかった。
外国人選手はラスト50mで力を発揮してくる。マナドゥも例外ではなかったが、バテ
ていた。
しかし、柴田の泳ぎは2ビート。マナドゥは6ビート。スピードでは劣る泳ぎだった
が、1日20kmも泳ぎ込んだ持久力で補っていた。がむしゃらに手を回し、呼吸をマナ
ドゥ側にして泳いだ。
ラスト25mで完全にマナドゥを追い越した。

その時の実況が今でも憶えている。

「柴田がとんでもないことをしでかしそうだ!!!」

そう、とんでもないことだった。女子自由形日本人初の金メダル。いや、アジア初の
快挙だ。

私はもう、座ってなんかいられなかった。

10m、5m、ゴールタッチ。

全身がしびれたのは私だけではないはず・・・。
日本の自由形が世界に一歩踏み入れた瞬間だった。
これからも自由形で世界の舞台で活躍することを期待している

第5話

1988年ソウルオリンピック
女子400m自由形

1988年夏、ソウルにて行われました女子400m自由形、優勝候補はジャネットエバンス(米国)。

彼女の持ち味は、お世辞にも綺麗とは言えないが豪快で個性的なストローク、ペース配分など関係なしで前半から全開で突っ込んでいく積極性、そしてなによりレース後に見せるとてもキュートな笑顔です。

いよいよレースがスタート!

いつも通りの豪快なストローク、だがいつもの積極性がありません。
前半はかなりのスローペース。このままレースを終えてしまうのか・・・・・。
しかし後半、エバンス選手のペースは落ちません。それどころか周りの選手をどんどん引き離していきます。

そしてゴール!!

記録は4分3秒85!世界新記録です!!

レース会場は大歓声です。しかし何より、エバンス選手自身が一番驚いているようでした。
私が一番感動したのは、オリンピックという大舞台でこれまでの自らのペース配分を変えた作戦、それに恐れることなく挑んだ積極性。そして結果を残す実力。
(4分3秒85という世界記録は現在も破られていません)

そしてなによりも感動したのは、やはり彼女の笑顔でした。

第4話

ジュニアオリンピック
教え子のレース

「ジュニアオリンピックにて・・・・」

私は某スイミングスクールで選手育成に携わる者です。

私が今までで一番心に残っているレースはその当時の教え子が出場した「ジュニアオリンピック」です。

当時は私もまだまだ選手の練習にしても半信半疑でただ夢中で突っ走っていました。
練習の中でもかなり無理をさせていたように思います。
その中でも唯一私の言う事に必死になって着いてきていたのが A.N ちゃんでした。

その他のみんなががんばっていなかったわけではありませんが、飛びぬけてやっていたように思います。
私が選手に厳しく注意すると大体の選手は目に涙を浮かべ泣いてしまいますが、この子だけは決して涙を見せない気丈な選手でした。
A.N が初めて「ジュニアオリンピック」に出場したのは9歳の春の大会でした。
B グループになって二回目で出場するのはかなり実力がある選手しか出場することが出来ない中、見事出場できました。その後も順調に制限タイムを突破し出場をしていき3回目の出場の時の話になります。
3回目となりますと B グループ最後の大会になり私も非常に熱が入り指導していましたがその練習の中で何度も呼び出して A.N にこんな事を問いかけていました。

「お前は全国で優勝する気はあるのか?」

この問いかけに本人は「はい!」とうなずいていました。当時は私も半信半疑で問いかけていましたが、だんだん当日に近づくにつれて現実感が沸いて来ました。当然本人が必死になって私のしごきにも耐えてくれたからこそ実現感が出てきたわけですが本当に良く頑張っていたと思います!

大会当時の日は私が引率する事が出来ませんでしたが、引率のコーチから随時連絡を頂いていました。予選はリラックスしたムードで出場し見事1位通過する事ができたと連絡を頂いたのはお昼過ぎでした。私は正直本当に信じられなかったです。
決勝に向かうまでの間私は自分のことのように緊張して仕事どころではなかったように思います。決勝の時間の1時間前になりスイミングの電話がなりました。引率コーチからでした。なんと「もう召集に行きよった」という電話・・・・何をしてんやと思いましたが、引率コーチ曰く早く行った方が緊張しないようだと言われ納得して電話を切りました。それからまた1時間後スイミングの電話がなりました、引率コーチからです。

「結果はどうでしたか?」
「おめでとう!!優勝や!!!」
「ありがとうございます!」

でした。本当に身体が震えたのを今でも覚えています。

第3話

1988年ソウルオリンピック
男子100m背泳ぎ決勝

まずはじめに、この企画を見て本当に心から嬉しくなりました。また皆さんの心に残る名レースを聞きたく思います。本当にこの企画を個人的には非常に応援しています。
スイムTV様、ありがとうございます。

私のこころに残るレースは・・・

1988年ソウルオリンピック 男子100m背泳ぎ決勝 です。

「大地は金メダルが狙える」と誰もが言っていました。
しかし、順当にいけば3位がいい所だったでしょう。

デビット・バーコフ、ポリアンスキーなど、早々たるメンバーでの決勝。
浮き上がって、バーコフ好調。ポリアンスキーはまだ潜っている・・・。
とアナウンスが今も耳に残っている・・・。
後半は、「大地いった」「大地いった」「金メダル」の繰り返し。それ程興奮した試合だった。

みんなが、あこがれる後半追い込んで逆転優勝!

私は、見たもの、得たものは

本当に勝つために心して練習をして来たんだな・・・。ということです。
あのキックの強さは当時、群を抜いて世界一だったと思います。
後半の加速は、大地キックから産まれ、結果優勝になったと思います。

現在も、よくビデオを見て興奮しています。